倫理学の基礎理論としてしばしば帰結主義、義務論、徳倫理学という三つの区分が行われる。
功利主義によれば、道徳的に正しい行為とは、この世界に可能な限り多くの幸福をもたらそうとすることである。
倫理的判断の理由は公平(不偏的)でなければならない。つまり、偏った人や集団の利益を優先的に考慮するのではなく、各人の利益を等しく考慮するのでなければならない。
功利主義に対して違和感を持つ論者たちは、功利主義に対する対案として「義務論」という名前で一括される一群の立場を提案してきた。
その基本的な考え方によれば、行為の評価は、その行為や意図が義務にかなっているかどうかによって行われる。
義務は、「何々すべきだ」「何々すべからず」という命令の形で与えられ、それに合った行為は正しい行為であり、合わない行為は不正な行為である。
「べきだ」という言葉は、しばしば道徳とは無関係にも使われている。
カントはこうした「何々すべきだ」を「仮言命法」と呼ぶ。仮言命法は、私たちがある欲求を持っていると仮定するなら何を行うべきかを教えてくれる。
これに対して、カントの考えでは、道徳的義務は欲求に依存していない。道徳的義務は「もしあなたが何々したいなら、あなたは何々すべきだ」という形ではなく、無条件で(定言的に)「あなたは何々すべきだ」という形で命じる「定言命法」だとされる。
カントは定言命法はいくつかの仕方で定式化できると考える。
W・D・ロスの「一見自明の義務」(primafacieduties)
カントとの違い(1)
カントとの違い(2)
現代の徳倫理学は、功利主義(とくにその帰結主義の要素)や義務論への批判から出発した。
徳倫理学は道徳的動機について自然で魅力的な説明を与えてくれる。
例を考えてみよう。
「あなたは病院で長い療養生活を送っていると想定しよう。あなたがとても退屈していて、手持ち無沙汰で、何もすることがないときに、スミスが二度目のお見舞いに来てくれる。 あなたはスミスはいいやつですばらしいやつであり、親友であるとかつてないほど強く信じる――彼はあなたを励ますことに多大な時間を費やし、隣街からはるばるお見舞いに来てくれているのだから。あなたが溢れんばかりにスミスの行いを賞賛し感謝するので、彼は水を差すように、自分が義務だと思っていること、最善のことと自分が考えていることを私はいつもしているだけだ、と言う。はじめのうちあなたは、スミスは恩着せがましくならないように謙遜しているのだと思っている。しかし、二人が話せば話すほど、スミスは字義通り本当のことを言っていたということが、ますます明らかになってくる。スミスがあなたのお見舞いに来たのは、本質的に言ってあなたのためではない。彼がお見舞いに来たのは二人が友人だからではなく、[…]そうすることが自分の義務であると考えたからである、そうでなければ、ただ単にあなた以上に励ましを必要としている人は他にはおらず、そして、あなたほどすぐに励ますことができる人は他にいないと彼は考えているからである。」(M・ストッカー「現代倫理理論の統合失調症」37頁)
功利主義は少数者を切り捨てるのではないかという定番の批判がある。
これに対し、功利主義側も定番の答えを持つ。
戦争倫理学においても、功利主義的な倫理学と義務論的な倫理学がある。戦争倫理学における義務論的立場は以下の三つに分けられる。
現代においては、義務論系の戦争倫理学者の大半が何らかの形の正戦論を採用している。
日本における平和教育では、戦争は絶対的な悪だという前提のもと、暗黙のうちにパシフィズムが当然の立場であるように語られることが多い。しかしパシフィズムを採用すると、侵略戦争に対して自国の領域内で敵を撃退するためだけに行う戦争まで否定することになる。そうした自衛戦争をも否定する戦争倫理学者はいないわけではないが少数派である。
すべての国の戦争を同時に禁止することができるならば自衛戦争も必要なくなるだろうが、そうした全面禁止に実行力を持たせるのは難しい上に、自衛戦争が必要なくなることと、仮に侵略行為があった時に自衛する権利がなくなることとは同じではない。自衛の戦争の権利を否定するのは難しい。
功利主義的な戦争倫理学もまた、正しい戦争と間違った戦争があると考える。たとえばウィリアム・ショウは以下の功利主義的戦争原理(utilitarian war principle, UWP)を評価基準として挙げる。
UWPに基づいて実際に個々の戦争の是非を判断する際、正戦論で使われるような様々な条件が参考にされないのではない。しかし直接功利主義的なUWPの観点からは、そうした条件はあくまでどの選択肢が最も幸福を増進すると期待できるかを判定する目安である。
いずれにせよ、正戦論的な基準を目安として利用するため、UWPの観点からは、どの戦争が正当化されてどの戦争が正当化されないかについて、標準的な正戦論とあまり大きな差は生じない。ということは、功利主義的な戦争倫理学は、厳密な意味での自衛戦争に限らず、集団自衛や人道的介入などのいろいろなタイプの戦争を是認すると予想される。
交戦規則について。標準的な正戦論では、非戦闘員の保護、必要性、比例性(生じる害の大きさが得られる利益の大きさと見合ったものであること)などが正当な戦闘行為の基準として挙げられる。これらはすべて、功利主義的な戦争倫理学の観点からは、戦争という必要悪の負の効果を最小化するための規則だということになる。また、非人道的な兵器の使用制限も、功利主義的な観点から説明できる。
二層理論の観点からは、以上のような単純な行為功利主義的な戦争倫理学を採用することには不安がある。
さらに言えば、功利主義の観点からは標準的正戦論より厳しい規則が求められるかもしれない。
さて戦争と軍事研究を結びつける途中の段階として、軍備の倫理性についても触れておく必要がある。
正当な戦争があるならその戦争を行う準備をすることも正当である。仮に、自国の防衛のための軍備は必要が生じてから行えばいいというような状況であれば、常備軍は必要ないということになる。しかし、現実世界における戦争の進行するスピードと、軍備を整えるのにかかる時間から考えれば、必要が生じてから軍備を整えるというのは非現実的である。この意味での軍備であれば防衛に特化したものでよいはずであり、正当な軍備の種類にはそういう意味での制限がかかるだろう。
軍備の正当性を論じる場合にもう一つの論点になるのが「抑止力」という考え方である。一般に軍備には自衛のための備えという側面と「抑止力」としての側面があると言われる。適度な軍備を持つことが戦争そのものを予防するという考え方である。
軍備が抑止力として作用するためには、自国の領域内の防衛だけでなく、相手国にダメージを与える力がなくてはならないだろう。こうした「抑止力としての軍備」という理屈を認めるならば、自国の防衛を超えた軍備を行うことも正当化されることになる。
しかし他方、抑止力という名目で整えられた軍備が侵略的な性格の強い(しかし「自衛」や「人道」の名目の下で行われる)戦争のために用いられるのは常であり、抑止という正の効果と正当化されない戦争を準備してしまうという負の効果のどちらが大きいかによっては、抑止力という理屈を認めるべきではないということになるだろう。
軍備について考える際にもう一つ導入しておくべき区別が、正面装備と後方装備の区別である。武器、戦車、戦闘機など、実際に交戦相手にダメージを与えるための装備が正面装備と呼ばれ、弾薬、補給、設備などが後方装備と呼ばれる。軍事研究との関係で言えば、軍事に関係する情報収集もまた後方装備に含めることができるだろう。
正面装備が戦争に特化したものが多いのに対し、後方装備は他の目的にも利用できることが多い。しかし、正面装備だけでは軍備は成立しない以上、後方装備もまた正当性が問われるべき軍備の一部として位置づける必要があるだろう。
以上のことを確認した上で、軍事研究、すなわち情報収集なども含む広い意味での軍備に寄与することを目的とした研究を倫理学的に評価するとしたらどうなるかを考える。軍民デュアルユースについては別途考える。以下では、直接的に軍事的安全保障を目的としている研究の是非を考える。
戦争倫理学におけるさまざまな立場は軍事研究へのスタンスに応用できる。
現在、軍事研究について倫理学的な議論をする上で「軍事研究現実主義」を取ることは考えにくいから、以下では主に「正軍事研究論」と「軍事研究パシフィズム」を考察の対象とする。
日本国内での軍事研究をめぐる議論では軍事研究パシフィズムがデフォルトの立場になっていることがある。しかし、この立場を倫理学的に正当化するのは難しい。もちろん、戦争そのものについてパシフィズムの立場に立つならば、軍備そのものが正当化されず、したがって軍事研究も正当化されない。しかしすでに見たように、自衛の権利を全面的に否定する立場はもっともらしいとは言いがたい。
では功利主義的戦争倫理学の観点からは軍事研究はどのように捉えられるだろうか。
すでに見たように、功利主義的戦争倫理学は標準的な正戦論か、おそらくそれよりは「自衛」の範囲を限定したようなルールを判断基準として採用することが予想される。ということは、自衛戦争などの正当な戦争を行うための軍備もまた正当化され、正当な軍備をするための研究もまた正当化される、という結論が一応出てくる。つまり功利主義の観点からは軍事研究パシフィズムが導き出されることは考えにくい。
しかし、より具体的にどのような研究が正当化されることになるかというのはいろいろな要因に依存する問題で、なかなか簡単な答えは出ない。
まず直接功利主義の観点からは、軍事研究の是非の基準となるのは、ショウのUWPに類するものとなるだろう。これを「功利主義的軍事研究原理(utilitarian military research principle, UMRP)」と呼ぼう。
UMRP
また、軍事研究について功利主義的に考える上では、無実の被告に死刑宣告をする裁判官の思考実験の場合のように、直接の帰結だけでなく、二次的な効果も考慮に入れる必要がある。
さらに、研究というものに特有の二次的な効果として、研究結果は、さまざまな意図を持つさまざまな人が利用することになるということが挙げられる。軍事研究を行なった場合、研究者は自分の研究がその後の軍備や戦争の中でどのように利用されるかについてはほとんど制御できない。二次的な利用のされ方の中には大きな害をもたらすものもあるだろう。
以上のような懸念を考えるなら、結局正戦論の場合と同じく、軍事研究に対してもかなり制限の強い規則を厳格に守ることが功利主義的にも求められることになるだろう。
どのような規則が考えられるだろうか。正戦論のさまざまな規則は、必要悪としての戦争の負の効果をできるだけ抑制しようという意図で作られており、その意味では「正軍事研究論」的規則を考える上でも参考になるだろう。
これらの条件を満たす軍事研究は、功利主義の観点から見ても一定の基準はクリアしていると言っていいだろう。これがどれくらい厳しい基準となるかは、その研究が置かれた環境にかなり依存する。
最後に、軍事転用可能な研究、いわゆる軍民デュアルユース研究がどう評価されるかを考える。
この基準を当てはめると、一概に「軍事転用可能」と言っても大きなグラデーションがあることがわかる。
軍事転用可能な研究が直接的な軍事研究と一つ異なるのは、研究の自由という別の要因が絡むことである。
自由な研究が保証されることは、学問を活発にし有用な知識や技術を生むといったさまざまな正の効果を持つから、功利主義的にも研究の自由は重要である。
「軍事転用可能」というだけで軍事転用可能な研究について比例性の基準を適用する際には、その研究が行えなくなることの害の側に、同種の研究について研究の自由が保証されなくなることを加える必要があるだろう。
比例性の基準を単独で使うということは、UMRPのような(直接)功利主義的基準を直接当てはめるということとあまり変わりがなく、その弊害も引き継ぐことになる。
そこで、軍事転用可能な研究のうちどのようなものが比例性の基準に照らして問題となるのかを目安として示すような、もう少し適用しやすい基準を改めて考案する必要があるだろう。
ここまで、功利主義の考え方を軍事研究や軍事転用可能な研究に当てはめたとき、どのようなことに着目しながら考えるべきかという基本的な考え方を示した。
具体的な事実関係に大きく依存する功利主義的な評価の性格上、以上のような考察からすぐに言えることはあまりない。
ただ、絶対的なパシフィズムと絶対的な現実主義の対立といった、対話の糸口すらないような問題設定と比べれば、功利主義的な軍事研究倫理は、事実関係を調べて対話するという道筋が開けるという点では比較的建設的なのではないか。