応用倫理学の中でも主要な一分野として「環境倫理学」がある。加藤尚武は環境倫理学の三つの基本主張を整理した(2020[1991])。以下の三つである。
アルド・レオポルドが、1949年に刊行したエッセイ集である『砂土地方の四季:スケッチところどころ』(ASandCounty Almanac: And Sketches Here and There. 邦題は『野生のうたが聞こえる』)において提唱したとされる「土地倫理(land ethic)」という考え方を取り上げる。
レオポルドの主張は大きく以下の三点にまとめられる。
土地倫理の担い手として想定されているのは、その土地を私有地として所有する人々である。アメリカでは個人が土地を所有し利用する権利(所有権)は広く認められるべきだという考え方が浸透しているため、個人の所有地が乱用されることを防ぐために制度や法律によって規制をかけることは困難だった。そのため、土地所有者の倫理に訴えることで土地の荒廃を食い止めることが土地倫理の狙いにある。
土地倫理は「土地の健康」を目標とする。1944年の報告書「自然保護:全体の保護か部分の保護か」でレオポルドは次のように主張する。従来の経済的な動機に基づく自然保護では、換金可能な一部の生産物だけに価値が認められる。しかし、生態系の安定は種の多様性がなければ維持できない。そのため、土壌や水、植物、動物を含めて共同体としての「土地」という単位で捉え、土地の自己再生能力(「土地の健康」)にこそ注目する必要がある。
「倫理観の進歩に役立つよう打っておくべき「奥の手」は、一言で言えばこうだ――適切な土地利用のあり方を単なる経済的な問題ととらえる考え方を捨てることである。ひとつひとつの問題点を検討する際に、経済的に好都合かという観点ばかりから見ず、倫理的、美的観点から見ても妥当であるかどうかを調べてみることだ。物事は、生物の共同体の全体性、安定性、美観を保つものであれば妥当だし、そうでない場合は間違っているのだ、と考えることである。」(レオポルド1997:349.強調は引用者)
この一節は、土地の健康を評価する際に「全体性、安定性、美観[美しさ]」に着目するべきであることを指摘する。「全体性」とは単なる部分の総和ではなく、競争や相互依存を含む動的な統一を指し、「安定性」とは静的または不変の状態ではなく、さまざまな経路とレベルで栄養循環を機能させる能力を示し、「美観」とはある個物の美しさではなく、全体が調和した神秘的な美しさを意味している。
土地倫理の発想と地続きであるように思われる、「マルチスピーシーズ」の議論がある。マルチスピーシーズは、人間以外の動植物種を、人間と分離した静的な資源や象徴としてみなすのではなく、人間を含む動植物種間で動的に絡み合いながら、それらがともに生きる生活圏を構成するものとみなす観点を指す。人類学や民俗学、都市計画学などの分野で議論がなされている。
環境倫理学の視点から捉えれば、マルチスピーシーズは、人間以外の動植物種にとっての影響を十分に考慮せずに、人間にとっての幸福のみを追求した結果、気候変動や大気汚染、土壌流亡、生物多様性の減少に至る、広範囲の生態学的な損害を引き起こしたという観点を提供するだろう。これは、レオポルドの「土地という共同体の健康」の実現を目的とする土地倫理の現代版と言える。マルチスピーシーズの観点は、都市に住む私たちの生活がどれほど多くの動植物種との直接的、間接的な連関において成り立っているかを振り返るきっかけともなる。
ここからは、自然物を原告として行われた「自然の権利」訴訟を見る。
1995年、鹿児島地方裁判所に風変わりな裁判が起こされた。奄美大島で計画されているゴルフ場開発を止めてほしいと、アマミノクロウサギなど野生生物4種が、鹿児島県知事を訴えた。ゴルフ場開発によってすみかである山野が改変されるのは、我々野生生物にとって死活問題だ、自然には自然のままにある権利があるだろう、開発をやめよ、という訴えである。これが、日本で初めての自然の権利訴訟である。
もちろん、動物たちが実際に裁判所に出向いたわけではなく、裁判を起こした人間の原告たちが、訴状の原告欄に野生生物の名前をともに連ねたのである。
法解釈の側面だけから考えると、動物が主体となって人を訴えるというのは常識外れな提訴だが、「自然は誰のものなのか」、「誰に自然を守る義務/権利があるのか」、「誰のために自然を守るべきなのか」など、いくつもの問いを投げかけた裁判だった。
以後17年の間に約30件の自然の権利訴訟が各地で起こされたのは、共通する問題意識を持った人たちが少なからずいることを示している。
奄美自然の権利訴訟をはじめとするいくつかの自然の権利訴訟と、同時期に起こされたいくつかの自然保護訴訟を手がかりに、人と自然との関わり合いを捉え、守るべき自然を人がどのように考えているのかを考える。
アメリカでは自然保護のため、つまり自然を開発から守るための戦術として、自然を原告に加えて開発業者や企業、行政を訴える自然保護訴訟が、1970年代に始まった。
そのきっかけとなった裁判は、1965年に始まった「シエラ・クラブ対モートン事件」である。自然保護団体であるシエラ・クラブは、ウォルト・ディズニー社のリゾート開発計画を止めるべく、開発許可を出したロジャース・モートン内務長官にその取り消しを求めたのだった。しかし、一審、二審、最高裁判所は「同団体には原告適格がない」として、訴えは1972年に却下された。
その最高裁判決の際に、担当する裁判官の一人で判決とは異なる意見を持っていたウィリアム・ダグラス判事が、「シエラ・クラブに原告適格を認めるべきである」、「この裁判の原告は(シエラ・クラブではなく)ミネラルキング渓谷であるべきだった」と意見書に盛り込んだ。
ダグラス判事は判決の少し前に公表された法哲学者クリストファー・ストーンの論文「樹木の当事者適格」を引用している。論文の要点は、権利が時代とともに拡張されてきた経緯からすると、自然物にも拡張されるのは順当だということと、自然物にも法人格を認めうるということである。
「権利の拡張」とは次のようなことである。たとえば選挙権が女性にも認められるようになったのは20世紀になってからである。アメリカでは、白人だけでなく黒人にも投票権が認められたのは1965年である。また、胎児をも原告とすることができるし、その代弁者を立てることが可能だとしている。だとすれば、権利は樹木にも拡張され、その権利が侵害されれば、妨害の排除、回復、損害賠償が認められるべきである、したがって裁判の原告ともなりうるし、それを人が代弁することにも無理はない、という議論である。
アメリカではこれをきっかけとして、1973年に制定された絶滅危惧種保護法によって、絶滅の恐れのある種に対する侵害行為に対して誰もが差し止め訴訟を起こす資格をあらかじめ付与された。これを市民訴訟条項と言い、以後、これがあるがために、自然保護団体は原告となりうるし、そこに動物名があろうとなかろうと、訴状は受理されて裁判が始まるということになった。
1978年に起こされた「パリーラ対ハワイ土地天然資源省事件」では、絶滅危惧種保護法のもとでの野生動物への対処が象徴的に現れた。パリーラとはハワイ島にのみ生息する野鳥で、実際に訴訟を起こしたのは自然保護団体のシエラ・クラブとハワイ・オーデュポン協会である。連邦裁判所は翌1979年に、原告パリーラの勝訴の判決を下した。
この裁判でシエラ・クラブとハワイ・オーデュポン協会が問題にしたのは、ハワイ島の固有種であり絶滅危惧種であるパリーラが、家畜の放牧によって生存の危機に見舞われている現状だった。この野鳥が主食とする実が成る木である、マーマネというハワイ島にのみ分布する固有種の分布が次第に減少しており、その原因の一つが、放牧された羊による食害なのだとしたのである。
絶滅危惧種保護法によって2団体とも原告適格ありと認められているため、裁判はすんなり本論に入ることができ、原告の訴えが認められ、被告には家畜の放牧を禁止する措置が求められた。「シエラ・クラブ対モートン事件」が同団体の原告適格についての議論で7年も費やした時代とは大きく変わったと言える。
他方、日本の法制度では、裁判を起こす資格である原告適格が厳しく制限されていて、直接的な利害関係がないと「原告に適格なし」として却下される。奄美自然の権利訴訟のようにゴルフ場の建設計画の場合だと、敷地に隣接する土地を持っていてそこに直接経済的な被害が出る可能性があったり、せめて同じ市町村に住んでいたりしないと、原告適格は認められにくい。奄美大島の住民であるというだけではまったく不足なのであり、それはたとえ毎日のように野生動物の写真を撮りに森に通っていてもそうである。まして島外、県外のよそ者は論外である。
そもそも奄美大島を含む奄美群島には特有の背景がある。戦後の米軍統治を経て1953年に本土復帰した後、島の人々は山野を削って広い舗装道路を造ったり、護岸工事をしたり、森の木々を切りだして鉄道の枕木や紙パルプの原料として売ったりすることで島の生活を成り立たせてきた。自然をなくすことと自然から搾取することが「島の正義」だった。
しかし原告たちは、緑豊かな深い森に生き物の賑わいがあってこそ奄美らしさがあり、その森が削られ、生き物たちの気配が消えていくことは奄美大島に住むもののアイデンティティを奪われるに等しいと感じていた。このうえゴルフ場を造られてはたまらないと建設反対運動に立ち上がった。ただし、島内で支持を集めることは困難を極めた。「島の正義」に反する行為だからである。
自然の権利訴訟を起こし、原告に動物を加える手法はアメリカの自然保護訴訟のスタイルを借りたが、1種ではなく4種選んだところに原告たちの意図が表れている。奄美群島には、数百万年をかけて独自の進化を遂げた固有種がいくつも生息している。
結果的に裁判所は、動物原告の扱いを曖昧なまま棚上げし、人間原告らについても原告適格がないとして、訴えを却下した。
しかし、原告らの代理人として名を連ねた弁護士は67名に上り、新聞やテレビなどで「ウサギが人間を訴えた」と取り上げられることによって、離島のゴルフ場開発問題が全国的に関心を持たれるようになった。そのうえ、現地検証が行われ、裁判官も奄美大島を訪れて、開発予定地の森などを歩いて、原告らの説明に耳を傾けた。自然保護の戦術としては成功を収めたと言える。
さらに、裁判の進行中に開発会社の都合でゴルフ場開発が中止されたため、原告たちが目指した**「ゴルフ場の開発を止める」ことは実現した**。
とはいえ、オオヒシクイ訴訟で裁判所が動物原告を分離裁判の後に却下し、残りの人や団体の原告を対象にした裁判だけを続けるという対処法を取ったことから、以後の裁判ではこれが踏襲されるようになり、自然原告はあくまでも象徴的な意味合いと捉えられるようになった。また、法廷では「自然には権利があるのか」という議論は行われていない。それでも自然原告を加えた訴訟が絶えないのは、守りたい自然を表すものとして違和感なく受け入れられたからだと考えられる。
このように見てくると、日本における自然の権利訴訟の原告の人たちは、一面では物言わぬ自然の代弁を買って出たのと同時に、「自然を守りたいと思う人の裁判に訴え出る権利」(市民訴訟条項)をも求めているという解釈もできる。
こうした裁判を支えるのは、弁護士に加えて、生態学者などの十分な生態観察実績を持った専門家たちである。その生物にとって、開発がなされた場合にどのような被害がもたらされるのか、意見書を提出したり、裁判所が認めれば法廷で陳述したりするのである。ここで言う被害とは、繁殖が阻害され、生息数が減り、固有種ならば絶滅の危機に近づく可能性が高いといった内容である。
なお「自然には権利があるのか」について裁判の中で議論されたわけではないが、各訴状や事前書面、意見陳述書には、それぞれの考えが述べられている。
世代間倫理は自分の死後の将来を問題にする。とはいえ、自分の死後に生まれてくる将来世代についてリアルに想像するのは難しいかもしれない。たとえば、高レベル放射性廃棄物の問題などは10万年先を視野に入れている。
しかし、現在から将来を見るのではなく、現在から過去を振り返って見れば、少し見方が変わるかもしれない。私たちが生まれる前から人類は環境に多大な負荷をかけてきた。
時間を戻すことはできないので、私たち現在世代は、過去世代に行いを改めてもらうこともできず、相応の補償もないまま問題と向き合わなければならなくなっている。
不可逆の時間においては、長期的なリスクや負担は、後続世代に一方的に押し付けられる。これが世代間の残酷な、しかし本質的な関係性である。
生まれる前から負の遺産を一方的に押し付けられていた元将来世代の私たちは、その理不尽さと、過去世代の無責任さを実感できるのではないだろうか。そして、それと同様の過ちをおかさないようにすべきだと感じるのではないだろうか。
時間の不可逆性と生死による世代間の断絶のために、長期的なリスクや負担は前の世代から一方的に後続世代に押し付けられるが、これと同様に、現在世代の将来世代に対する配慮も一方的なものでしかありえない。
近代社会の倫理的決定システムは、基本的に生きている人間同士の相互的な関係性を前提としている。
一方、現在世代と将来世代の間には時間的断絶があるため、そうした相互的関係が成り立たず、当然、互恵関係も成り立たない。
もちろん、だからといって将来世代に配慮しなくてよいわけではない。将来世代への配慮はなされるべきだが、それは見返りを期待しない、一方的な形でしかなされえないのである。
このことを明確に主張したのがハンス・ヨナスである。ヨナスによれば、現在世代の将来世代に対する配慮は、大人が、見返りもないのに、赤ん坊を守り育てるようなものである(ヨナス2020:221–230)。
ヨナスは一方的な配慮の典型として親子関係を挙げているが、これは他の人間関係にも見出すことができる。
他にも、時間的断絶やズレのために相互性が成り立たない場面は現在世代内においても数多く存在する。そこには、一瞬であっても、弱い立場に立たされる人々と、それに対して影響力を行使しうる人々が存在し、前者が弱い立場にあるがゆえに、後者は前者に対して自発的に、そして一方的に配慮する。
世代間倫理は、現在世代内で働いているこのような一方的な配慮を将来世代にまで広げていくものだと言える。
私たちは科学技術時代になって、将来世代を自分たちの力に脅かされている弱者とみなし、現代世代内にとどまっていた一方的な配慮の適用範囲を遠い将来にまで及ぼすべきだと考え始めている。
しかし、世代間の公平性という考え方を脅かすように見える厄介な問題がある。デレク・パーフィットが指摘した「非同一性問題」 である(パーフィット1998)。
この問題は、ある世代の意思決定によって、後の世代において誰が生まれてくるかが異なるという事実から出てくる問題である。
現在世代がある政策決定をした場合、その影響は社会情勢を変化させ、人々の行動を変化させる。これに伴い、現在世代の人々の、子供を持つかどうかとか、誰との間にいつ子供を持つかといった事柄に関する意思決定も変化しうる。そうなると、この政策決定をした場合と、それをしなかった(別の政策決定がなされた)場合とでは、異なる(つまり、同一でない)人々が生まれてくることになる。
このことから問題が生じる。
現在世代が将来世代に対して明らかに悪い影響を与えるような政策決定をしたと仮定してみよう。その結果生まれてくる将来世代の人々は、現代世代の意思決定のために、悪い環境の中で生きることを強いられる。
しかし、この人々はある意味で、現在世代の意思決定を批判することができない。というのは、もし現在世代が当該の政策決定をしなかったなら、この人々は生まれてこなかっただろうからである。もし「生まれてこなかった場合と比べれば(悪い環境の中だとしても)生まれてきたほうがよかった」と考えるなら、この人々は現在世代の決定を批判することができない。すると、現在世代の人々は将来世代の人々に対する義務を果たさなくてよかったことになってしまう。
非同一性問題に対する応答を見よう。
結論から言えば、非同一性問題によって世代間倫理が完全に不可能になると考える必要はない。むしろそれは、現在世代から将来世代に対する配慮が本質的に個人に対するものではなく匿名的な集団に対するものであることを明らかにしてくれる格好の議論だと捉えられるべきである。
非同一性問題は「人格影響説」という考え方を前提としている。人格影響説とは、一人一人の個人に対してどのような影響を及ぼしたかによって行為を倫理的に評価する考え方である。たしかに非同一性問題では、将来生まれてくる特定の個人の人生をよりよくしたか、より悪くしたかということを基準として現代世代の意思決定が評価される。
しかし私たちは、この非同一性問題の議論に違和感を覚え、将来に負の影響をもたらす政策決定はやはり倫理的に許容できないと考えてよい。このとき私たちは、特定の個人の人生をよくするか悪くするかを倫理の基準とは考えていない。むしろ、将来の時点に生きる人々が誰であるかにかかわらず、よい環境で暮らせるような意思決定をすべきだと考えているように思われる。別言すれば、ある人々が不幸に生きる世界よりも、別の人々が幸福に生きる世界を実現すべきだと考えているように思われる。
これは将来世代という匿名的な集団の幸福量を増大させることを追求する功利主義的な発想として理解することができる。功利主義は、関係する人々あるいは社会全体により多くの幸福をもたらす行為や政策を倫理的に正しいものとして評価し、不幸をもたらす行為や政策を倫理的に不正なものと評価する。この発想を通時的に拡張するなら、将来世代の人々が全体としてより幸福な生活を送ることができるような政策決定が肯定的に評価されることになる。その際、将来世代の成員が誰であるかということを考慮する必要はない。
あるいは、非同一性問題は世代間倫理の共同体主義的側面を逆説的に示す議論だと考えることもできる(Norton2016:361–363)。
一般に私たちは、自らの属する共同体がよりよい状態で引き継がれ、繁栄することを望む。そのとき、その共同体を構成する人々が誰になるかは問題ではない。むしろ、将来の時点で誰が構成員になっても、その共同体全体がよりよい状態にあることを、私たちはその共同体の一員として望み、それが実現できるような意思決定をするべきだと考える。
自らの意思決定によって将来世代の個人をより悪い状態にしないからといって、何をやってもよいとは考えず、共同体全体の公益やそのよりよいあり方を実現できるよう行為しようとする。非同一性問題に違和感を覚える人は、このような共同体の公益やよりよいあり方に価値を見出し、それを守るべきだと考えていることになる。
原子力発電に伴って発生する高レベル放射性廃棄物の問題は世代間倫理について考えるための重要な題材である。この廃棄物は10万年以上もの長い間危険であり続け、画期的な技術革新がない限り、そのリスクは原子力発電から直接利益を得ることのない遠い未来の人々に残される。これが世代間の不公正であることは明白だろう。
ここからはこの問題を見る。
この問題について考える者は、私たち人類が途方もなく大きな力を持ってしまったという事実を目の当たりにし、今後の行動や意思決定において自分たちが格段に重い責任を担わなければならなくなったという現実と向き合うことになる。人々に重い教訓を与え、将来世代に配慮した行動を取るよう動機づける力を持つがゆえに、この問題は世代間倫理の議論において重要な意味を持つ。
しかし、この問題それ自体は世代間倫理の観点から見て悩ましいものでもある。たしかに、それを教訓として襟を正し、今後の行動や意思決定を将来世代に配慮したものへと変えていくことはできるかもしれない。しかし、すでに発生してしまった放射性廃棄物についてはそうはいかない。これについては事態を元に戻すことはできず、もはやそのリスクと負担を世代間で公正に分配することはできない。
もっとも、だからといってこの問題について世代間倫理を論じる意味がないということにはならない。むしろ、世代を超えてリスクや不利益が残されるからこそ、そのプロセスをできるだけ倫理的なものにしていかなければならないし、現実の状況に合わせて世代間倫理の議論をさらに精緻にしていかなければならない。ここからはこうした問題意識を持って、高レベル放射性廃棄物のリスクに対処するための世代間倫理がどのようなものでなければならないかを考える。
重要なのは、地層処分が最終処分の一形態だということである。最終処分とは、処分後に廃棄物を管理しない処分方法である。当然、これがうまくいけば将来世代に経済的・社会的負担を残すことはなく、世代間公正を実現することができる。
しかし、現在の科学技術では1000年先、いや100年先の地質状態や地下水の動向さえ、ピンポイントで確実に予測することはできない。このような不確かな見通ししか持つことができないのに、本当に地層処分場の閉じ込め機能を信頼してよいものか、不安は払拭できない。とくに、日本のように地震の多い国では、その間に自然が想定外の動きをしないとは断定できないだろう。また、キャニスターやそれを覆うオーバーバックの一部分が急激に腐食して予想より早く穴があけば、放射性物質が想定よりも早く漏洩し、世代間公正は実現できなくなる。
このように私たちの頼りない予見能力に基づいて地層処分を実施することはほとんど賭けに等しい。世代間公正を実現するという目標のためとは言え、これは倫理的に危うい選択である。
安全性の他にも問題はある。
最終処分である以上、地層処分の狙いには、一度埋めた廃棄物を取り出すことは含まれていない。しかし、地層処分を実施した後になって廃棄物のよりよい処分方法や廃棄物を安全に有効利用する方法が開発されたとしたら、将来世代は、放射性廃棄物のリスクを軽減したり放射性廃棄物から利益を得る機会や権利を失うことになる。
リスクを残すにもかかわらず、それへの対処方法をあらかじめ確定してしまい、実際にそのリスクに対処することになる将来世代にその機会や選択権・決定権を与えないのは、倫理的に問題があるだろう。
一方で、最終処分をせず、地表近くで監視しながら廃棄物を長期的に貯蔵し続ければ、想定外の出来事により廃棄物が漏洩しても素早く対処でき、より優れた処分方法や安全な利用法が開発された場合でも、それらについて将来世代に選択権・決定権を残すことができる。
空気の自然対流を利用して廃棄物の崩壊熱を除去する乾式貯蔵の手法を使えば、冷却のために機器の動力を利用しないため、安全性も高まり、費用や監視の労力の面でも相対的に負担を軽くすることができるかもしれない。
しかし、この選択肢にも別の問題がある。
地表近くで貯蔵する場合には、自然災害やテロリズムによる被害の可能性など、地表特有のリスクが懸念される。乾式貯蔵の信頼性が高いとはいえ、このリスクの評価次第では、地上での貯蔵に不安を覚える人が出てくるかもしれない。また、将来世代に廃棄物管理の負担を強いるという点で貯蔵は世代間公正の理念に反する。
原子力発電で得られた利益から基金を作り、その負担を全面的に補償することで世代間の不公正を軽減するという方法もあるが、それで数千年から数万年に及ぶリスクに対処するための十分な額を確保できるかどうかは定かではない。
このように、高レベル放射性廃棄物の処分方法をめぐっては、大きく分けて「負担の世代間公正」と「選択権・決定権の世代間公正」のどちらを優先すべきかという点でディレンマが存在する。
どちらを優先しても、将来世代に何らかの迷惑をかけることとなり、世代間公正を十分な形で実現することはできない。
世代間公正を十分な形で実現できない場合に私たちに課せられるのは、廃棄物のリスクや負担を将来世代に引き渡すプロセスをできるだけ倫理的なものにすることである。では、次善の策としてどのような方法が採用されるべきだろうか。
高レベル放射性廃棄物の処分問題の難点は、廃棄物の影響やそれに対する将来世代の価値観などについて確かな予測ができないという点にあった。こうした不確実性が支配する状況において、ある世代がある時点で長期にわたる処分方法を確定してしまえば、選択の失敗が明らかになったとしても、後戻りができなくなったり、不測の事態に対応するための選択肢が制限されたりして、将来世代の行動を拘束することになる。これにより将来世代の選択権・決定権が侵害されるだけでなく、将来世代に無用な負担やリスクがもたらされることになるかもしれない。
それゆえ、超長期的なリスクを後続世代に受け渡す場合には、一度に大きな決断を下すのではなく、将来起こりうる想定外の事態に備えて、できるだけ柔軟に対応できる体制を整え、漸進的に事態を好転させていくことを目指す方が、致命的な失敗をおかす可能性が少ないという意味で、よりよい方針だと考えられる。
以上の方針に照らした場合、地層処分は柔軟性の点で懸念がある。廃棄物を埋めて処分場を閉鎖してしまえば、その後に後戻りすることはできず、その時点から廃棄物処分についての他のオプションが意味を持たなくなるからである。この場合、将来世代が柔軟な対応を取る余地はほぼなくなってしまう。
もっとも、こうした懸念を払拭すべく、現在では地層処分の計画に可逆性と回収可能性が組み込まれている。たとえば、2015年5月22日に改定された「特定放射性廃棄物の最終処分に関する基本方針」には次の内容がある。
「最終処分事業は長期にわたる事業であることを踏まえ、最終処分を計画的かつ確実に実施させるとの目的の下で、今後の技術その他の変化の可能性に柔軟かつ適切に対応する観点から、基本的に最終処分に関する政策や最終処分事業の可逆性を担保することとし、今後より良い処分方法が実用化された場合等に将来世代が最良の処分方法を選択できるようにする。このため、機構は、特定放射性廃棄物が最終処分施設に搬入された後においても、安全な管理が合理的に継続される範囲内で、最終処分施設の閉鎖までの間の廃棄物の搬出の可能性(回収可能性)を確保するものとする。」
ここでは、地層処分に可逆性および回収可能性を組み込むことで、さまざまな状況の変化に柔軟に対応できる体制を整え、将来世代の選択権・決定権を保障することが目指されている。
もちろん、これで先のディレンマが根本的に解消され、世代間公正が十全に実現できるようになるわけではない。というのは、可逆性および回収可能性を残すということは、将来世代の選択権・決定権の観点で世代間公正を優先したということであり、これは他方では、最終処分施設の閉鎖までの管理の負担を将来に残すという世代間不公正を選択したことになるからである。
むしろ、ここでは十全な世代間公正の実現が不可能であるという前提のもと、不確実性への対応という観点から、柔軟な対応の可能性を残すという次善の策が講じられていると解釈すべきだろう。
しかし、柔軟な対応の可能性を重視するというのであれば、地上付近で貯蔵を継続するという選択肢も同様に残されていることになる。あるいは、この方針を重視するならば、地上での貯蔵という選択肢の方が理にかなっているかもしれない。地層処分場を閉鎖して最終処分を完結させるという決断は将来世代の柔軟な対応の可能性を著しく狭めるものである。それゆえ、地層処分技術の安全性・確実性が「柔軟性の維持」という方針を無視することができる程度にまで高まらない限り、このような決断を下すことはできないだろうし、またそうすべきではないだろう。
このような厳しい基準をクリアできる時期が本当にすぐ来るのかどうか、これもまた不確実である。そのような不確かな見通しの中で、地下に巨大な建造物を建造するために資金と労力を投入するべきかどうかは慎重に検討しなければならない問題である。
地層処分場を建造して廃棄物を設置した後で、なかなか最終処分を完結させる条件が整わず、監視を続けるのであれば、実質的な管理負担は地上での貯蔵とほとんど違いがないようにも思われる。
そうだとしたら、まずは地上での貯蔵を継続し、地層処分場建設のための資金を将来世代のより柔軟な選択(地層処分も含めた)を支える資源として蓄えておく方がより合理的な選択だと考えることもできる。
もちろん、今後の廃棄物の取り扱いに関して、どちらがよりよい選択なのかをいまの時点で一概に確信することは難しい。
その検討は多様な利害や価値観を持つ人々による熟議という形態で行われる必要がある。
それは第一義的には、処分場や貯蔵施設を受け入れる可能性のある地域の人々の権利を不当に侵害しないよう、その人々の声を決定に反映させるためだが、その重要性はそれに尽きるのではない。熟議において多様な視点が確保されることによって、意思決定がもたらす文化的、社会的、政治的、環境的な影響が幅広く俎上に載せられ、批判的検討を受けることになる。それによって意思決定のバイアスが修正され、意思決定はより完全なものとなりうる。多様な視点からの批判的吟味は、私たち人間の貧弱な予見能力を補い、不確実性の中でより妥当な意思決定を行う可能性を高めてくれると考えられる。
そして、高レベル放射性廃棄物のリスクが超長期的に持続する以上、この熟議は世代をまたいで継続されなければならない。ある世代の予測や予見には限界があり、それはつねに現実に裏切られる可能性がある。そうだとすれば、リスクに対してより適切な対応を取るためには、多様な視点に基づく熟議を通時的に行う必要がある。すなわち、それぞれの世代は、前の世代の意思決定を自明視するのではなく、新しい状況の変化や新しい視点を踏まえて短・中・長期的な見通しをその都度立て直し、必要な場合には、前の世代の施策を修正したり、後戻りさせたり、全面的に改定したりしながら、よりよい対処の仕方を探り当てていかなければならない。
また、このように各世代が過去の意思決定を実情に合わせて変更することが正当に行われるためにも、熟議による意思決定システムが世代を通じて成立し続けなければならない。そのためにはこうした熟議による意思決定システムを各世代が持続的に維持・管理することが求められる。
高レベル放射性廃棄物の問題については、世代間公正の十全な実現を断念し、持続的熟議を通じた漸進的最適化へと方針を転換せざるをえない。この方針は異なる世代間関係を前提としており、転換は根底的なものである。
一般には、世代間公正の理念は、各世代がもたらす悪影響をその世代内で解消し、次の世代に不当な負担を残さないことを求める。いわば、利害の「収支」を各世代で完結させることを求めているわけである。ここでは、人々が刻一刻と誕生し死亡する現実の動的過程が仮想的に凍結され、過去世代、現在世代、将来世代がそれぞれ独立した存在として明確に区分されている。そしてこのような静的な世代間関係を前提として世代間の公正が追求される。
他方では、持続的熟議による漸進的最適化の場合には、世代を超えた、あるいは世代をまたいだ最適化が目標となっている。そこでは、刻一刻と現在世代が過去世代となり、将来世代が現在世代として存在するようになる継ぎ目のない動的プロセスが一つの共同体として前提されている。このような持続的共同体のよりよいあり方を実現するために、できる限り適切な意思決定を行うことが、その都度成立する現在世代の義務となる。
このように対比すると、世代間公正の理念は私たちが生きている動的現実を度外視して構築された抽象的で非現実的な理念であるように見えるかもしれない。
しかし、世代間公正の理念もまた、それはそれで、私たちの生活世界から生じた生きた理念である。私たちが、生まれ、生き、死んでいく存在であるからこそ、そこに「すでに死んだ者」「いま生きている者」「まだ生まれていない者」という区分が生じる。そして、動的現実の不可逆性を知っているからこそ、時間的に断絶する存在者間の公正や、すでに死んだ者やまだ生まれていない者への責任が私たちに切実な倫理的問題として迫ってくる。
このような意味で、世代間公正の理念は動的現実に深く根ざした理念であるのだから、それを非現実的として斥けたり、軽視するわけにはいかない。
さらに、以上の二つの理念の序列についても注意が必要である。持続的熟議による漸進的最適化の試みはあくまで次善の策であり、世代間倫理の第一原理とすることはできない。
実際、漸進的最適化という原理に対して、世代間公正という原理は統制的機能を果たしていると見ることができる。
こうして、超長期的リスクに対処するための世代間倫理は次のような序列を持つ諸原理から構成される。
第一原理と第二原理の序列に厳格に従うならば、前者の十全な実現を断念し、後者へと目標を転換するためには、十分な正当化がなされなければならない。
これらの条件が満たされない場合には、後続世代への負担の押しつけが、正当な根拠もなく、なし崩し的に容認されてしまうという非倫理的な状態が出来することになる。
たとえば、1966年から2004年までの間の使用済み核燃料の再処理費用は2005年から2020年までの間の需要家が等しく(原子力発電の電気を利用するか否かにかかわらず)託送料金(送配電網の利用料)に上乗せする形で負担をしている。ここでは過去の需要家が本来負担すべきであった再処理費用を、現在の需要家が代わりに負担するという明白な世代間不公正が行われているわけだが、これを第一原理から第二原理への転換として理解することができるかもしれない。
しかし、こうした転換が行われるためには、本当にこのような不公正な方法しか選択肢がないことを十分に論証しなければならない。
このような諸条件が満たされずに負担とリスクが後続世代に転嫁されるという状態が既成事実として力を持つようになれば、その後の政策決定のあり方にも悪い影響を及ぼすと予想される。そこでは、将来世代に対する配慮に欠けた意思決定を安易に許容ないし助長する風土が支配的になるだろう。
こうした風土を排するためにも、私たちは世代間公正の理念と漸進的最適化の理念の序列および前者から後者への転換の条件に厳格に従う風土を醸成し、持続的に強化していくよう努めなければならない。
アルド・レオポルドは、「土地倫理」の考え方を提唱した。
日本では1995年以降、野生生物など自然物を原告とする「自然の権利」訴訟が行われた。その実践例を見た。
世代間倫理。